A Book review(書評)
  岩元綾著・詩集「ことばが生まれるとき」を読んで
                    田爪方子(鹿児島県作文の会)

 眼を伏せたまま少女は静かに立っています。じっと見ていると、おとなになった綾さんのようにも思えてきます。
 広げた両手はふりそそぐやわらかな陽射しを感じ取っているのでしょうか。自然のもたらす匂いや音や動き
を味わっているのでしょうか。今にも思いがことばになってあふれてきそうです。
 ほんとうに綾さんの本らしいなあというのが詩集「ことばが生まれるとき」を手にして思ったことでした。表紙の
少女像もさることながら、「ことばが生まれるとき」というタイトルもまた詩人としての綾さんを表しているようでした。
 一読して、綾さんが素敵な女性として私たちの前に立っていると感じました。それはひとつひとつの詩やエッ
セイにも表れているのですが、構成の力でもあるようです。プロローグとエピローグで、ひまわり幼稚園に入
った幼い自分と少年が、それぞれ立派に成長して同じ園に戻ってくるようすを俯瞰的に描いています。
 少年が表紙を描いた加藤久仁生さんであることもひまわり幼稚園の「子どもの自(みずか)ら育つ力を
大事にする」教育方針もさりげなく紹介して、読み手を引きつけます。
 同じことは、詩の並び方にも言えます。大人になった綾さんの目から見た幼稚園時代の自分を描いた
「ブランコ」を一番初めに置き、後は時系列に作品を収めています。これまでの歩みを綴りたいと詩集を編
む作者の思いが見えるようです。

  子ども時代の作品から〜「空の模様」〜

    夕日             二年    綾

 夕日をさがしに行った/しろ山こうえんに行った/夕日はまだしずんでいなかった/

 大きな夕日だった/きらきらひかって、しずんで行った/

 しずんだ後、火じのような夕やけになった。

 初めて書いた詩です。お母さんの「短い日記だと思えばいいのです」のことばがみごとに功を奏してでき
た詩、自然の美しさにひたっています。

   たこあげをしたこと      二年    綾

 たこあげをした/風が、ぴゅうぴゅうとふいていた/たこが、ぶるぶるとふるえていた/

 たこはさむいのかなあと思った/でも、たこは、どんどん上がっていった/

 そして、お空にのっていた/たこは、強い

 「読んでみたら上手に書けていました。わたしは、にこにこしました」と日記に綴っています。ぶるぶる震える
たこに、「さむいのかなあ」と心配しています。
 それでもどんどん上がっていくたこ、「たこは、強い」は綾さんの感動であり、自分もまたかくありたいとい
う思いでもあるのでしょうか。 
 どちらの詩も一つのものを見つめ続ける視線を感じます。しずんでいく夕日を上がっていくたこを、ずっと追
い続けて離れない二年生の女の子の心の動きが読みとれます。

  「メッセージ」から

 「私はダウン症児として生まれた」長い間言えなかった、書けなかった一行を綾さんが初めて書いたの
は2004年でした。医療専門誌に「みんな同じ人間、同じ命―命の重さには変わりはない―(ダウン症
者本人の立場から)と発表した時、「体から重い重い服を脱いだような、肩に背負っていた荷物を下ろ
したような」気持ちと同時に「私が生まれた時、何の手がかりもなく、ただ命の期限を宣告された両親の
深い悲しみとつらさに向き合った時でもあった」そうです。ダウン症であることを受け止め、ダウン症を理解
してもらうために活動し続ける綾さんの思いを伝える章です。

 「21番目の一本多い染色体にはやさしさと可能性がいっぱい詰まっている」というお母さんのことば
から「21番目の一本多い染色体には多くのダウン症の子どもを持つ親たちのわが子に対する熱い思
いも詰まっている」と捉えて、「21番目の染色体の中には無限の可能性もあると想像してみて!」と呼び
かけています。
 圧巻なのは「命の重さ」です。「生まなければよかった」「この子と死にたい」「育てられない、家に連れ
て帰れない」と言う親たちの言葉に「いらない命なんてない ダウン症の人も鮮やかな美しい色づかいで、
すばらしい絵を描くではないか 溢れるようなやさしい音色で、音楽を奏で、歌うではないか 思いっき
り素敵な笑顔を見せてくれるではないか」と出生前診断による命の選別に抗議しています。
 そして「私は世界に向かって叫んだ/どよめきと鳴り止まぬ拍手の中、/「みんな同じ人間、同じ命、
命の重さには変わりはない!/
 両親には“生んでくれてありがとう”と言いたい!」と力強く結びます。

  「風の別れ、そして今」から

 3・11の福島に寄せる思いの「フクシマへ」、「銀の白鳥」と「風の別れ」からなる章です。ただ単に外
側から原発事故を語るのではなく講演で訪れた街、出会った人々を通して福島を綴った「フクシマへ」、
絵本「銀の白鳥」の主人公の少年が言う「命の終わる時 どんなにきれいな人間の声よりも 美しい
歌を歌う」という白鳥に「毎春 三月一一日がきたら 舞い降りてきて歌ってほしい。
 一万幾千の魂のために この世で一番美しい歌を!」という鎮魂の歌、どちらも命の重さを知る綾さ
んの心からの叫びです。
 祖母、叔母、叔父、教えを受けた先生方と幼い時から自分のそばにいた人々との別れを綴った「風
の別れ」は思い出を胸に「そして、わたしは今を生きる」と結び、これからの綾さんの生き方を示して、抑えた
書きぶりながら心にしみるものでした。
 清涼な風が吹きわたっているような詩集でした。子どもの綾さんがページから覗き、大人の綾さんが語
りかけてきました。どちらもすてきな表情でした。
 ご両親の昭雄さん、甦子さんの文章も、綾さんの「ことばが生まれる」背景を見せてくれるものでした。
子どもにも大人にも、たくさんの人々にぜひ読んでほしい詩集です。





 「すてきな詩集 みつけた!」2012.4.14 発行「詩創」no29
                         宇宿一成(詩人会議) 

 「大人になった私が子どもの頃に日記の中で書いた詩を中心に日常の暮らしの詩や人との出会いや
別れ、悲しいことや辛いことにつながる詩などをまとめました。そして3.11東日本大震災と原発事故に込め
た詩も生まれました。」というメッセージと共に届けられた詩集。
 父母から愛されて育った娘の、育んでくれた両親への、また世界への穢れのない返信のように読んだ。
日常生活のささやかな幸せのひとこまをさりげないがこれしかない言葉で切り取る作者は、この作品からは
窺いも知れないダウン症児として生を受けた人だ。
 言葉を、これほど真面目に信じている詩人がほかに在り得るだろうか。言葉に拠って成長し、ダウン症
でない私達よりもっと豊かに耕された心を持つすてきな女性であることは本詩集を読めばすぐに分かる。
 ダウン症者本人としてのメッセージである「命の重さ」という詩には「私は世界に向かって叫んだ/(略)
命の重さに変わりはない!/両親には“生んでくれてありがとう”と言いたい!」と綴られる。
 父親は詩創の仲間でもある岩元昭雄氏だ。


 「『ことばが生まれるとき』のこと」抄(短歌同人誌「藍 252 2012春号」より)                                          田口淳一(新聞記者)
                  (前文略)

 手元に届いた1冊の詩集のせいでもあった。「ことばが生まれるとき」。それが詩集のタイトルだ。著者は
鹿児島県霧島市に住む岩元綾さん。詩人でも作家でもない女性が初めて編んだ、言葉にかかわる成
長記録とでも言えそうな詩集である。
 綾さんと出会って14年になる。鹿児島に勤務したころ、綾さんの大学卒業前の取材が初対面であっ
た。なぜ1人の女子大生の卒業にメディアは注目したのか。先に言ってしまえばダウン症として生まれた人が
大学を卒業するのは少なくとも国内では初めてのケースとされたからだ。
 ダウン症に冠されている「ダウン」は英国の研究者の名である。人間の染色体23対のうち、21番目の
染色体が1本多い3本になっていることによって、発達が遅れたり、甲状腺、心臓などの合併症を伴ったり
する。千人に一人ぐらいの割合で生まれるといわれている。
 ダウン症者は言葉を獲得することが困難ともされてきた。ところが、綾さんは英語やフランス語など外国
語の力も備えて卒業した。両親をはじめ周囲のきめ細やかな支えのなかで文字に、言葉に触れる機会は
幼い頃から多くあり、時間にせかされることなく文字を書くことを覚えた幼稚園での日々を父昭雄さんは
「ことばへの憧れとでもいえそうな灯をともしてもらえた」と振り返る。小学1年で日記を書き始めたある日、母
甦子さんは「短い日記だと思えばいい」と娘に詩をすすめた。

  夕日をさがしに行った。

  しろ山こうえんに行った。

  夕日はまだしずんでいなかった。

  大きな夕日だった。

  きらきらひかって、しずんで行った。

  しずんだ後、火じのような夕やけになった。

 小学2年生のときに作った「夕日」も詩集にある。「ブランコ」は幼稚園のころを思い出して書いたもの
で、最後の2行が印象的だ。

  ブランコをこぐと 遠くに見える雲が 友だちのように見えた

  ブランコは一人ぼっちの私の最大の遊び場だった

 詩に呼応するように、甦子さんは〈ブランコを 漕ぎし記憶を持たぬ吾の 視野に舞い舞う 娘の
赤き靴〉という歌を残している。
 〈柔らかき 頬をりんごの如く染め 走り来たれよ 吾娘よこの腕に〉。綾さんが2歳のころのこの歌
をはじめ、母親の短歌も娘の身近にあった。
 「言葉が大切にされていたところで、綾さんは育まれたともいえる。そして体験という時間をかけて培わ
れた言葉は次の言葉を生み、それらが積み重なりながら、いつしか違うステップに立っている。そんな歩
み方だったに違いない。そう思えたのは、最初の取材ではひと言ひと言、ゆっくりと時間をかけて答えた
綾さんが時を経て会うたびに、自信をもって言葉を発するようになっていったからである。
 全国での講演、あこがれのパリ旅行、絵本の英訳、翻訳、出版。濃密な体験の時間が流れた。
言葉を獲得することは、たゆまぬ歩みとともにあった。大学2年の時、両親から初めて知らされた障害を
綾さんはやがて「乗り越える」のではなく、「受け入れる」ようになる。綾さん自身がそう言葉に定着させ
た考えであった。」

 1本多い染色体には〈やさしさと可能性がいっぱい詰まっている〉と語る母の言葉をかみしめ、「21番
目のやさしさに」という詩になった。「命の重さ」では、いらない命なんてない〉と世界に向かって叫んだ。
出生前診断などに対する明確な意思の表明でもあった。
 何でもない日常も詩になり、被災地に住む知人らに思いをはせる「たんぽぽ」、「フクシマへ」なども生
まれた。

 〈南に住む私は、白鳥を知らない〉と始まる「銀の白鳥」もそうした1編である。同名のイングランドの
絵本を翻訳しているときに震災は起きたという。テレビが映し出す悪夢のような情景を描いたあと、詩は
こう続く。

  白鳥はつがいになると、生涯寄り添って暮らすという。

  襲いくる津波の中で握っていた妻の手が離れていく感触を 今も忘れないとその夫は言う。

 そして、〈絵本の主人公の少年〉に託す言葉は、被災者への綾さんの挽歌となっていく。

  「白鳥は 命の終わる時 どんなきれいな人間の声よりも、美しい歌を歌うという
 
 それはほんとうだ

  ぼくは 雛たちをかばって きつねと闘って死んでいった 銀の白鳥が夜どおし歌っていたのを聴
いた」

  白鳥たちよ 銀の白鳥よ 毎春 三月一一日がきたら舞い降りてきて 歌ってほしい。

  一万幾千の魂のために この世で一番美しい歌を!

 「専門家にとってダウン症者自らが本を書くこと自体、綾さん以前では想像できにくいことであった
ようだ。だが、特別な存在という意味でここに取り上げているのではない。綾さんの歩み、その詩集をた
どることで見えてくるものがあるように思うのだ。そのときどきに言葉が生まれ、やがて詩となっていったとい
う軌跡、まさにタイトルのようにである。そこにはずっと、祈りの思いがつらなってきたようにも感じられる。
 凄まじい現実を前に、それをいつか受容していく器を、人は自らのなかに生み出していくのだろうか。
その時、おのずと大切な言葉が、力を内包した言葉が、胸のうちに降りてくるのだろうか。そのための時
を待つことの大切さを、最近の映画によっても改めて教えられた。韓国の映画監督イ・チャンドン氏が
制作した「ポエトリー アグネスの詩(うた)」である。






    
 

 

 

  

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